今の私をつくった、8つの転機

振り返れば、うまくいった経験だけでなく、失敗し、迷い、それまでのやり方を変えた場面ほど、今の私に深く残っている。ここでは、今の私をつくった8つの転機を、そこで何を学び、その後の仕事をどう変えたのかとともに記す。

Chapter 01

ないなら、自分でつくる。

1995年 学生時代 つくったものを届けるには、相手が求める価値と場まで考える

電話代と引き換えに、深夜の世界へ入った

子どもの頃から、1人で本を読み、文章を書き、手を動かして何かをつくることが好きだった。昼休みに校庭へ出ず、図書室で本を読む。作文や読書感想文は早く書き終え、手書きの新聞をコピーして売ったこともある。クラス中の友達を巻き込んで、手描きの同人誌をつくったことも一度や二度ではなかった。読むこと、書くこと、つくったものを誰かへ渡すことは、まだ仕事という言葉を知らない頃から、私の中でつながっていた。

最初にコンピュータで文字を入力したのは、小学校の教室だった。当時は手書きが当たり前だった学級だよりを、担任の先生はワープロでつくっていた。興味を示した私に清書を任せてくれたため、放課後、先生が残っている間だけ画面に向かった。頭の中の文章が、まるで本当の新聞のように整った形で紙面になる。その経験から、自分のパソコンが欲しいと思うようになった。

父は、子どもにそのような物は必要なく、大人になって自分で稼いでから買うものだと考えていた。それでも、お年玉を貯めた預金を使い、母にも協力を頼んで、何とか手に入れたのがMS-DOSとWindows 3.1の入ったパソコンだった。

棚に設置された初めてのパソコン
初めてのパソコンに夢中になった

初めて起動した夜は、搭載されている機能を端から順に開き、何に使うのか分からないものまで確かめた。用途が決まっていたのではない。自分の内側にあるものと、まだ知らない外の世界をつなげられる気がした。

パソコン通信は電話回線を使うため、接続時間だけ料金がかかった。家では深夜の定額サービスを利用し、午後11時になるのを待って草の根BBSへつないだ。掲示板を読み、書き込みをし、午前1時頃まで知らない人と言葉を交わした。高額になった電話代を知った父は激怒し、電話線を外そうとした。私は電話代をアルバイトで払い、学校には毎日通うと約束した。何かを始めるなら、費用と責任も自分で引き受ける。その感覚は、この頃に身についた。

売れない在庫と、売れすぎた本から学んだ

自分たちが作った同人誌が、売れる。お金になる。同人誌即売会という存在を知ると、参加したい思いが抑えられなくなった。最初につくったのは、自分たちの漫画や小説を集めた本だった。お年玉を印刷代へ注ぎ込み、200冊を即売会へ持ち込んだ。1冊500円で完売すれば10万円になると計算していたが、売れたのは2冊だけだった。手元に残ったのは1,000円と大量の在庫だった。自分たちがつくりたいものと、相手がお金を払って読みたいものは同じではない。その違いを、中学生の時に在庫の重さで知った。

同人誌即売会の会場に設けた頒布スペース
同人誌即売会の一コマ

次に劇場版アニメを読み解く研究本をつくった。友人と映画館へ8回通い、暗い客席でメモを取り、設定や物語の考察をまとめた。初版300冊を1冊400円で並べると、2時間で完売した。作品をつくる力が急に変わったのではない。多くの人が知りたいことを見つけ、それに対して自分なりの答えを出したことが違った。初めて、需要に応えるという感覚を得た。

売れた喜びの一方で、権利者から注意を受けた。欲しい人がいることと、販売を続けてよいことは同じではない。反応があるから正しい、利益が出るから許される、とは限らない。現在なら当然確認する権利や契約の線を、当時は知らなかった。売れた経験だけでなく、守るべき相手を見落とした失敗も、その後の事業判断に残っている。

高校生の頃には、1本5,000円の香水を12本、合計6万円で仕入れた。1本1万円で卸せば倍になるという触れ込みだったが、卸先は自分で開拓しなければならなかった。放課後にサンプルを持って約20軒を回り、断られ続けて諦めかけた時、レンタルビデオ店が置いてくれた。しかし、1本も売れなかった。毎日売り場を見に行き、減らない在庫を前に、置けば売れるという考えを捨てた。

ほかにも、当時広がり始めたアフィリエイト、同人誌サークルから委託を受けた通販サイト、ベル友と呼ばれたポケベル友達のマッチング、広告主を集めてフリーペーパーを発行して10,000部を手配りするなど、思いついた商売を次々と試した。どれも大きな利益にはならなかったが、高校生が試す副業としては手応えがあった。昼は高校へ通い、放課後に商売を試し、夜はホームページを更新した。誰が、何に困り、なぜそれを欲しいのか。新しい事業を考える時、今も最初に置く問いである。

ホームページ、音楽、フリーソフトを公開した

高校2年生だった1997年7月、最初のホームページをつくった。好きなアニメのイラストや考察を載せ、CGIの掲示板とチャットも設置した。情報が少ない時代だったこともあり、1日約200人が訪れた。約束をしていないのに毎晩チャットへ来る人が現れ、30秒ごとに画面を更新しながら会話した。自分の住む町では見つからなかった仲間が、画面の向こうにはいた。

MIDI音楽やチャット、掲示板、クイズなどを公開していた当時のホームページ画面
当時のホームページ。MIDI音楽やチャット、掲示板、クイズなどアクセスを集める努力をしていた。

未成年の私がオフ会の幹事を任されたこともある。カフェやボウリング場を選び、店を予約し、参加者から会費を集めて支払う。年上の参加者に支えてもらいながら、顔も知らなかった人たちが安心して集まれる場を整えた。後にイベントを主催し、会社で多国籍の社員と働くようになるが、人を集めることより、集まった人が過ごせる裏側を用意することの方が大切だと知った最初の経験だった。

ホームページでは、アニメのイラストや考察に加えて、作曲した音楽をMIDI形式で公開し、小説も発表した。Visual BasicやC言語を覚えると、画像整理ソフトや、テキストの中身を確認しながら整理できる「Text Scan!」といったフリーソフトもつくった。自分だけで使うのではなく、名前と説明をつけ、ホームページからダウンロードできる状態にした。小さな道具でも、誰かの面倒を減らせる。必要な機能がなければ自分でつくるという発想は、後に自作する通販受注システムや、物流の仕組み化へつながっている。

テキストの内容を確認しながら整理できるフリーソフト「Text Scan!」
テキスト整理ソフト「Text Scan!」(20.28KB)

小説やイラストを発表するうちに感想のメールも増え、CGIで設置した掲示板やチャットは毎日賑わった。顔も本名も知らない相手が、作品を通じて仲間になった。その仲間たちからも原稿を募り、創作小説の週刊メールマガジンを「まぐまぐ」で配信すると、多くの読者が集まる人気メールマガジンへ成長した。つくったものを公開すると、受け手が現れ、次の作品や場が生まれる。その循環を、インターネットの中で初めて知った。

作品を売るため、4,000人の場をつくった

フリーソフトをつくっているうちに、次はゲームソフトをつくりたくなった。友人にプログラムを頼み、イラストやCGを担うスタッフを外部から集めて、アドベンチャーゲームやクイズソフトをつくった。全員で会うことはなく、メールや当時のMSN Messengerで制作を進め、私は企画、物語、全体進行を担当した。納期が遅れれば衝突し、自分が考えた通りに他人は動かないと知った。作品の品質だけでなく、役割、期限、関係まで整えなければ完成しない。後のリモート組織で直面する問題を、先に小さな制作チームで経験していた。

リリースした同人ゲームソフトの画面をまとめた画像
様々な同人ゲームソフト17本をリリースした

完成したゲームは、秋葉原へ持ち込み、インディーズソフトを扱う店を回って営業した。インターネットでもダウンロード販売したが、無名のサークルの作品はあまり売れなかった。コミックマーケットに代表される大規模な同人誌即売会で注目されたいと思ったが、参加しても、数多くの作品の中へ埋もれてしまう。良い作品を完成させるだけでは、見つけてもらえない。自分たちが欲しい売り場がないなら、イベントそのものをつくろうと考えた。

日給6,000円の引っ越しアルバイトで元手をつくり、会場を2万円の手付金で押さえた。会場代は約40万円。100台の机を半分ずつ貸し、1区画3,000円なら60万円になる。当日は入場料500円を受け取る。経験はなくても、数字を紙へ置くと開催までの道が見えた。最初は採寸が甘く、机が図面通りに収まらなかった。好きな作品だけへテーマを絞りすぎ、出展者も来場者も集まらない回もあった。

どうすれば、皆に支持されるイベントになるのか。人気の作り手へ協力を頼み、全出展者が館内放送で1分ずつ作品を紹介できる企画を入れた。自分たちが埋もれる無名のサークルだったからこそ、欲しかった仕組みである。誰もが主役になれ、出展した人が自分の作品を見てもらい、売れるイベントにしたかった。コスプレコンテストやゲーム大会、同日開催の他の即売会と連携してのスタンプラリー、限定グッズ制作など、来場する理由になる企画も数多く用意した。それが当たり、回を重ねるうちに最大で1日約4,000人が来場し、約250万円を売り上げるイベントへ育った。

会場へリソグラフ印刷機を持ち込み、参加者から集めた原稿をその場で印刷、製本し、当日中に100円で売る企画も行った。私1人で作品を完成させるのではない。参加者、スタッフ、印刷会社が同じ枠組みの中で動き、1日だけの出来事をつくる。その熱が面白かった。つくる、公開する、人が集まる場まで設計する。用意された場所へ参加するだけでなく、必要なら場所そのものをつくるという原点が、ここで形になった。その過程で、自分たちの作品を売ることはいつしか目標ではなくなり、皆の作品が売れる場をつくることへ、より大きな情熱を注ぐようになった。

Chapter 02

成果だけでは、仕事は続かない。

2003年 会社員時代 個人の正しさや自己犠牲に頼らず、合意と仕組みで仕事を続ける

入社3か月で、フランス・パリへ送り出された

ゲームソフトをつくって売り、イベントでは数百万円の売上を上げたこともある大学生だった。だが、実際にはそれほど利益は残らなかった。当たらなかったイベントも、売れなかったソフトもあり、結果にかかわらず経費はかかる。その穴を埋めるため、日給6,000円や8,000円の日雇いアルバイトを続けていた。大学卒業を前に就職活動を始めた私は、イベントの仕事が好きで、当時、業界No.1だと考えていたイベント会社へどうしても入りたかった。しかし、最初の選考では不採用になった。そこで会社のイベントとウェブサイトを見直し、改善案をまとめて届けた結果、もう1度話す機会を得て採用された。安定した収入が毎月入ることに、まず安心した。入社を押し通した経緯よりも、その後に会社という場所で何を経験し、何ができなかったかの方が、現在の自分へ大きく残っている。

入社から約3か月後、もう1人の男性社員と2人で、フランス・パリの日本文化イベントへ派遣された。社内に男性社員はこの2人しかおらず、私は同行役として選ばれたのだと思う。それでも、入社したばかりの社員を海外へ送り出す判断は大胆だった。私にとっては、日本で知っていたイベント文化が国外でどう受け止められているのかを、初めて自分の目で確かめる機会になった。

事前に運営側へ何度メールを送っても、面会の約束は取れなかった。現地ではメールを印刷した紙を持って本部と思われる場所へ行き、日本から連絡していたことを繰り返し伝えた。ようやく運営の代表者らと話すことができたが、その場で具体的な協業が決まったわけではない。会場では同人誌を扱うファンジンの領域はまだ小さく、アニメやゲーム企業のプロモーション、コスプレなどの参加型企画が目立っていた。私はそこに、日本の同人誌文化を広げられる余地があると感じた。

あの訪問が直接の理由だったかは分からないが、会社は後にパリで同人誌文化に関わる活動を広げていった。最初の顔つなぎの1つにはなったのではないかと考えている。ただし、この時に身につけたのは、粘れば何でも実現するという考えだけではなかった。会社の信用と役割を背負って外へ出る時、個人の熱意を組織の成果へつなぐには、持ち帰った情報を社内で共有し、次の人が動ける形にする必要がある。その理解は、当時の私にはまだ足りなかった。

200人を想定した会場へ、600人以上が来た

会社から、コスプレを主役にしたイベントを立ち上げるという大枠を渡され、具体的な会場づくりを任された。それまでコスプレは同人誌即売会の一角に置かれることが多かった。私は、衣装を着た人自身が主役になれる場所をつくりたかった。更衣室を広く取り、撮影だけを目的にした来場を規制し、和室風、教室風、カフェ風の撮影セットも用意した。閉鎖的になりがちな会場から屋外へ出られるよう、会場や周辺店舗へ説明し、利用方法を調整した。

名古屋で開いた最初の回は、約200人が来れば黒字になる計画だった。実際には600人を超える参加者が集まり、会場は混み合った。私は全体統括として、各担当から上がる相談へ1日を通して判断を返し、現場を動かした。衣装を見せ合い、撮影し、参加者同士で交流する熱気があった。この成功を見た経営側の判断で、企画は秋田、神戸などへ広がり、立ち上げの時期には毎週のように各地を回った。

各地には、以前から会社の催事へ関わり、当日の運営を好んで引き受けてくれるリーダーと協力スタッフがいた。新しい試みを成功させようと、会場ごとの事情に合わせて動いてくれた。私はその場で最終判断をする立場だったが、受付、更衣室、撮影場所、誘導を実際に動かしたのは各地の人たちである。自分が具体化した企画が全国へ展開し、後にも続く形になったことは大きな成功体験だった。同時に、成果は自分1人の企画力だけで生まれたのではないことを、もっと早く理解すべきだった。

成功を支えたのは、現場へ来てくれたスタッフだった。多くは手弁当に近い形で参加し、会社から支給されるのは3,000円から5,000円ほどの交通費だった。イベントが終われば夕食を囲み、その日の苦労を労いたい。しかし会社から打ち上げの予算は出なかった。東京から来た社員としての見栄もあり、私はイベント後に現場スタッフたちを誘い、打ち上げ費用を自腹で払った。スタッフへの感謝は本物だったが、事業として必要な費用を会社と話し合わず、個人の財布で埋める方法を選んだ。

給料だけでは足りず、やがて消費者金融へ手を出すのは自然な流れだった。当時は個人で借りるなら年29.2%の金利は普通の時代だった。退職時には200万円を超える借金が残った。地方イベントの打ち上げを奢ったことだけが原因ではない。自分の飲み代や、夜遊びにも少なくない金を使った。

人へ感謝を伝えることと、担当者が借金をして運営を支えることは違う。予算が必要なら、その理由と成果を社内へ説明し、継続できる仕組みにしなければならなかった。同時に、仕事の苦しさを酒や浪費で紛らわせても、問題は残る。成果が出ている間は自己犠牲も美談に見えるが、個人の無理に依存した仕事は長く続かない。この失敗は、後に経営者として費用と責任の持ち方を考える基準になった。

自分の正しさを通し、社内の協力を失った

全国へ広がったイベントの実績から、自分の企画こそ正しいと思うようになった。会社では女性を対象とした催事が多かったが、私は学生時代の経験を生かし、男性向けのイベントも立ち上げた。しかし、何度企画してもうまくいかなかった。過去に集客できた方法を別の顧客へ当てはめ、社内に協力を求めるより、自分だけで結果を出そうとした。周囲の知識を借りて軌道修正することを、当時は自分の力不足のように感じていた。

成果を急ぐあまり、学生時代のイベント参加者へ、会社のイベントを案内するダイレクトメールを送ったこともある。自分では以前からのつながりへ私的に知らせる感覚だったが、受け取った側から見れば、個人情報を別の目的へ流用したように映る。抗議が会社へ届き、大きな問題だと指摘された。企画を成功させたいという目的があっても、使ってよい情報の範囲や会社の信用を、自分の判断だけで越えてよい理由にはならない。

大型会場の枠をどうしても押さえたい時には、実際とは異なる種類の催事だと説明して予約し、後から用途変更を伝えたこともある。会場側は、同じ日に似た催事が重ならないよう調整していた。私はその事情より、自分の企画を実現することを優先した。担当者から、会社との関係ではなく、私個人とは今後協力できないという趣旨を告げられた。枠は押さえられても、相手との信頼を失えば次の仕事はできない。企画の成功を急ぐほど、事前相談と合意を省いていた。

社長からは、組織の序列を守り、上司がその場にいなくても飛び越えるような進め方をしてはいけないと教えられた。当時は古い考えのようにも聞こえたが、後になって、重要なのは肩書を守ることだけではないと分かった。相談する順序を守ることは、関係者が判断へ参加し、結果への責任を引き受けられる状態をつくることでもある。私は根回しを避け、企画の正しさだけで人を動かそうとしていた。

学生時代からの仲間を現場スタッフとして呼び、自分の意図を理解する人だけで進めようとしたため、以前から会社で働く人との間に派閥のような空気もつくった。成功が続いた時には、周囲から反感を持たれていた可能性もある。しかし、それを周囲の問題として片づけることはできない。組織では、自分が優れた案を持つことより、必要な人へ説明し、反対や修正を受け入れ、同じ目的で動ける状態をつくる方が難しい。その難しさを知らないまま、私は成果だけを急いだ。

会社を離れ、組織で成果を出す難しさを知った

社長は半年に1回ほど、全社員を集めて経営計画を発表していた。経営状況と各部門がこれから行うことを共有し、その後は立食で交流する。当時の私は、立派な話を聞いても自分たちの日々の仕事は変わらず、無駄ではないかと思っていた。それでも後に中国で社員を抱え、ほかの会社の運営を学び直した時、自分も理念、Credo、経営方針を繰り返し伝えるようになった。古くからいる社員が冗談を言いながらも社長を慕っていたことも思い出した。社長自身も外で経営を学び続けていた。中小企業では、計画だけでなく、経営者を信じて一緒に働きたいと思える関係が組織を支える。

社長が、若い男性社員と私を飲みに連れて行くこともあった。話の内容は多くを覚えていないが、仕事の進め方や、人の上に立つ者が守るべき順序について語っていた。私は主に聞き役だった。会社員時代に得た人脈の多くとは、退職後に連絡を取らなくなった。一方で、仕事を終えた後に同じ食卓を囲み、立場を越えて話すことの意味は残った。後に自分の会社でも会食や交流を大切にした背景には、この時期の経験がある。

男性向けイベントの失敗が続き、社内でも孤立すると、何もかも投げ出したい気持ちが強くなった。近所にあった上野のカラオケ店へ1人で行き、当時3,000円ほどだった朝までのナイトコースで、ビールを飲みながら大声で歌い続けたこともある。店を出ても仕事の問題は何も変わらない。それでも同じ夜を繰り返すほど、精神的には追い詰められ、やがて会社へ行けない状態になった。

退職を相談した時には、ここで逃げずに続けた方がよいと引き止められ、それまでより裁量の小さいパンフレット制作の部署で約1か月働いた。それでも気持ちは戻らず、改めて退職届を出した。社長に受け取ってもらった瞬間、安定した収入を失う不安より、仕事から解放されて自由になった安堵の方が大きかった。それは会社が悪かったからではなく、組織の中で働く力が当時の自分に足りなかったからだと、今は考えている。

退職後は、学生時代のアルバイト先で世話になった先輩を頼り、葛飾区の安いアパートへ引っ越した。先輩は独立して自分の店を持っていたが、私を雇う余裕まではなかった。そこで知り合いの古本店を紹介してもらい、働き始めた。大きな催事を動かしていた肩書を失い、私には1時間800円の値札がついた。生活をつなぐ場所からのやり直しだった。

会社員時代の学びは、企画を当てる方法ではない。成果を出す力と、組織で成果を続ける力は別である。目的を共有し、順序を守って相談し、現場の負担を予算へ変え、失敗した時には協力を求める。自分1人の正しさや自己犠牲で仕事を動かさないことが、その後に会社をつくり、人へ任せる時の判断基準になった。

Chapter 03

安さではなく、安心が選ばれる。

2006年 起業 顧客の不安を減らす手間が、価格を超える価値になる

棚の価格差から、自分の専門店をつくった

古本店で働きながら、夜や休日にブックオフやハードオフを回った。棚の前で携帯電話を開き、ヤフオクやAmazonの相場を調べる。最初は学術書や医学書が中心だった。店では安く売られていても、全国には探している人がいる。仕入れ価格と販売価格の差を見つけ、1冊ずつ売ることで、時給800円とは別の収入が生まれた。

最初に仕入れた商品の1つは、特典が付いた漫画の限定版だった。中古店で買い、オークションへ出すと、仕入れ価格の約2倍で売れた。同じ商品でも、置かれた場所によって価値が違う。仕組みは単純だったが、差を見つけられる知識と時間が必要だった。同じことをする人が増えれば、価格差だけでは続かないことも見えてきた。

やがて扱いをファミコンへ絞った。繰り返し商品を買ってくれる客の送付先を調べると、相手はファミコン専門店だった。自分が仕入れた商品を、その店が説明を加えてさらに高く売っている。それなら、自分で売る場所を持った方がよい。即売会へ出る側からイベントを開く側へ回った時と同じように、誰かに売ってもらう側から専門店をつくる側へ移った。

分類して保管した中古ファミコンソフトを手に取る様子

月額1,000円のネットショップサービスを使い、「ファミコンデパート」を始めた。4畳半の部屋に並べた最初の商品は約30本だった。開店翌日に中古コントローラーが1,980円、送料500円で売れた。知らない誰かから届いた最初の注文は、規模の小ささとは関係なく、自分で選んだ道に顧客が答えてくれた1件だった。

同じ中古品を、同じ商品として扱わなかった

ファミコン専門通販「ファミコンデパート」の当時のトップページ

中古ソフトは、同じタイトルでも状態が違う。箱と説明書がそろったもの、ソフトだけのもの、ラベルがきれいなもの、落書きがあるものを同じ価格で並べれば、届くまで品質が分からない。1点ずつ撮影すれば正確だが、登録作業に時間がかかりすぎる。そこで状態をS・A・B・Cの4段階に分け、各ランクの基準と見本写真を示した。

Sは箱と説明書がそろった良品、Aは本体が新品に近いもの、Bは一般的な中古品、Cはラベルの傷みや落書きがあるものとした。Cは大手通販と同程度、Bは約3割高く、Aはさらに1〜2割高く設定した。Sの希少品には1万円を超える価格もつけた。Sはすぐ売れなくてもよかった。良い状態の商品までそろうこと自体が、専門店の信用になると考えた。

中古ファミコンソフトの状態をA・B・Cで示した商品説明

約1,000タイトルあるファミコンソフトは、名前を忘れても画面を見れば思い出せることがある。パソコンへ映像入力ボードを取り付け、仕入れたゲームを実際に起動して、特徴の分かる場面を商品ページへ載せた。登録のために始めた作業だったが、子どもの頃に遊べなかったゲームを試す楽しさもあった。売り手が商品を使うことで、説明は在庫表から体験の案内へ変わった。

箱や説明書がない商品には、傷んだ説明書や中古の攻略本も集めた。購入した商品でなくても、操作や攻略の相談へできる限り答えた。「題名は分からないが、こんな画面だった」という問い合わせには、登場人物や遊び方の断片を聞き、どのゲームかを探した。顧客が買っていたのは中古ソフトだけではない。状態が分かり、困った時に相談できるという安心だった。

680円のケーブルが、店を支えた

最もよく売れたのは、目立つ人気ソフトではなく接続ケーブルだった。1本300〜400円で仕入れ、680円で販売すると、1日に20〜30本の注文が入った。ケーブルだけで月50万円を超えた。本体を久しぶりに出した人にとって必要なのは、線そのものではない。「これを買えば、もう1度遊べる」という解決だった。地味な周辺商品ほど、顧客の具体的な困りごとに近かった。

ファミコン互換AVケーブルの商品ページ
当時商品登録したAVケーブルは、今でもAmazonで売れ筋

開店4か月で月商100万円を超え、私は時給800円のフリーターをやめて独立した。その翌月には株式会社を設立し、その年の暮れには月商500万円を超えた。法人化後の最初の決算では、売上高が2億円に届いた。利益が出ると、その資金を次の仕入れへ回したため、銀行口座の現金が急に増えたわけではない。売れた分を仕入れ、在庫を増やす。その循環を大きくした結果だった。

商品在庫が積まれた作業部屋
この部屋で月商500万円を達成した

毎週、店を思い出してもらうため、メールマガジンも配信した。新着商品、自分で遊んだおすすめ、プレゼント企画を載せ、翌週に当選者を発表した。1度買って終わりではなく、次の入荷や思い出のゲームを一緒に楽しむ関係をつくった。高校時代のチャットと同じように、商品を並べるページの中へ、人が繰り返し戻る理由を加えた。

在庫管理用パソコンとファミコンソフトが並ぶ作業机
1日20時間をここで過ごした

注文が増えると、最初の社員を迎えた。商品のクリーニング、受注確認、梱包、発送を手順にして渡すと、自分でなければできないと思っていた作業の多くを任せられた。私は仕入れ、商品企画、サイト運営へ時間を使えるようになった。同時に、クリーニング、動作確認、撮影、登録、発送、問い合わせという品質の連鎖を、他の人にも再現できる形へ変える必要が生まれた。

買取を、誰でも回せる仕組みに変えた

2007年のはじめ、自宅近くに初めての事務所を借りた。それまでは自宅が仕事場だったが、注文と在庫が増え、自分1人で抱える形では先へ進めなくなっていた。アルバイトを募集して4人を採用し、半年後にはJR小岩駅前のビル7階へ移った。場所を広げただけではない。自分に集まっていた仕事を分け、ほかの人と同じ基準で回せる事業へ変える必要が生まれた。

ゲーム買取.comのオンライン買取ページ

販売を増やすには、売れる商品を継続して集めなければならない。そこで「ゲーム買取.com」をつくり、ファミコンだけでなく、古いゲーム機から当時の最新機種までを買い取るようにした。オンライン買取がまだ一般的ではない時期に、顧客は会ったことのない会社へ大切なゲームを送る。高い査定額を掲げるだけでなく、申込み、発送、査定、入金までの流れが見えることが必要だった。

誰でも中古ゲームの買取査定ができるように作った専用システム画面
誰でも買取査定ができる専用システムを作った

古物商を管轄する警察署とも、本人確認の方法や不正防止について相談した。その上で、申込者、届いた商品、査定額、連絡、支払いまでを記録する専用システムをつくった。市中の取引価格データを業者から購入し、自社の在庫数や販売実績と突き合わせて、買取価格を自動的に算出するようにした。査定の基準と作業の順番も画面へ落とし込み、私が横にいなくても、担当者が同じ手順で買取を進められるようにした。速く処理するためだけではなく、誰が担当しても取引の履歴を追え、顧客へ同じ説明ができる状態をつくるためだった。

買取後のゲーム機とソフトを分類して保管した棚

届いた商品は、査定を終えるとクリーニングし、販売先を分けた。新しいゲームはAmazonへ、レトロゲームは専門知識を生かせる自社サイトへ出した。販売は自社サイトから始めたが、在庫連動システムを組み、Amazon、楽天市場、Yahoo!ショッピング、Qoo10、DeNAビッダーズ、eBayへ広げた。売り場は多いほど売れる。しかし、一点ものが多い中古ソフトだからこそ、二重販売を防ぐ在庫連動が必要だった。どこか1つの売り場で売れると、ほかの売り場の在庫数にも反映される仕組みにした。

棚から中古ファミコンソフトを取り出す様子

正確な統計はないが、おそらく日本で最も多く中古ファミコンを売っていたと思うほど、取扱量は増えた。今ではWMS(倉庫管理システム)と呼ばれる仕組みを、この時すでに導入した。商品をバーコードで管理し、商品と棚の位置を対応させることで、ゲームに詳しくないスタッフでも正確にピッキングできるようにした。数が増えるほど、私の記憶や勘に頼るのではなく、誰でも目的の商品へたどり着ける保管方法が必要になった。

中古ファミコンソフトが並ぶ在庫棚

仕入れ、査定、クリーニング、在庫、販売を1本の流れとしてつなぐことで、自宅で自分だけが行っていた作業は、複数の人が引き継げる工程へ変わった。取扱量が大きくなっても、どこに何があり、どの売り場で売れたかを追えることが、販売先を広げる土台になった。

写真と査定額を公開した「本日の買取マイスター」

商品を集めるために、「本日の買取マイスター」も毎日更新した。その日に届いた商品の写真と査定額を公開し、選ばれた顧客には査定額へ特典を加えた。「これを送れば、いくらになるのか」を実例で見せることで、初めて利用する人の不安を減らした。こうした積み重ねによって、「ゲーム買取」の検索順位では1位を維持した。安心は、商品の状態だけで生まれるのではない。申込みから入金までを見える形にし、同じ品質で繰り返せる仕組みにすることでもつくれると知った。

商品を増やすたび、買う理由をつくった

創業から5年間は、通販の売上を伸ばすことへ力を注いだ。ファミコンで得た仕入れと販売の経験を使い、ラインストーン、韓国のカラーコンタクトレンズ、天然石、スワロフスキー、ゲーム周辺機器、アロマ、米国家電の並行輸入と、異なる商品分野の通販サイトを次々に立ち上げた。安いことは入口にすぎない。同じ商品を扱う店が増えれば、価格だけでは選ばれなくなる。「なぜ私たちから買うのか」を、店ごとに明確にする必要があった。

ラインストーン99.comの当時のトップページ

ラインストーンでは、探している色や形が見つかるほど品揃えを増やした。それだけでなく、購入した素材でつくったデコレーション作品を顧客が投稿できる「デコ自慢」を設けた。売り場の外に作品を見せ合う場所があることで、商品は完成品をつくるための材料になり、顧客同士の工夫が次の人の参考になった。高校時代にホームページやイベントで経験した、人が参加するほど場の価値が増す仕組みを、通販へ持ち込んだ。

お掃除ロボットを分解してクリーニングする様子

米国家電の並行輸入では、安く買える一方、故障した時に国内で対応してもらえない不安があった。お掃除ロボットのルンバは、販売後の修理をいつでも請け負い、さらに1年ごとの分解洗浄メンテナンスを有料オプションにした。売って終わる店が多いなら、使い続ける時に顧客が困る部分まで引き受ける。価格差ではなく、購入後の不安を減らすことを、選ばれる理由に変えた。

商品を梱包・出荷していた当時の通販物流センター
当時の通販物流センター。出荷数量は年間30万個に達した

店を増やすたびに考えたのは、他社ができないこと、手間がかかるためにやらないことと、顧客が求めていそうなことが重なる場所だった。品揃え、コミュニティ、修理、メンテナンスは商品そのものではない。しかし、その周囲に残る不便を埋めることで、同じ商品でも買う理由をつくれる。創業から続く通販で身につけたのは、安い商品を探す技術だけではなく、顧客が買う前と買った後に感じる不安を見つけ、サービスへ変える考え方だった。

現在は海外の社員が商品を検品し、物流センターから大量の荷物を送っている。それでも、最後に顧客が受け取るのは1個の商品である。価格だけなら、さらに安い会社が現れる。状態が分かり、使い方が分かり、問題があれば相談できる。その安心は、仕入れ国や事業の規模が変わってもつくり続けられる。

なぜ、お客様は他社ではなく、自分たちから買ってくれるのか。昨日の正解は、今日は通用しない。その答えに終わりはない。今も考え、これからも考え続け、より良くしていく。それが商売だ。

Chapter 04

知らない国は、自分の足で確かめる。

2007年 中国初訪問 人を信じることと、取引を仕組みで確かめることは両立する

怪しいホームページの会社へ、2泊3日で会いに行った

2007年3月、ファミコン用のケーブルや互換機を安く仕入れようと、中国の貿易会社を探した。見つけた仕入れ代行会社のホームページは古く、送金先は個人名義だった。日本の問屋より大幅に安いという話も、そのまま信じるには怪しかった。それなら、会社と経営者が本当に存在するのか、市場には何があるのか、自分で確かめた方がよい。初めての中国行きを決めた理由は、楽観ではなく疑いだった。

義烏の国際商貿城と行き交う人々

成田から杭州へ飛び、60元の長距離バスで義烏へ向かった。到着すると客引きに囲まれ、市内なら5元ほどと後から知る距離で10元を払った。金額は小さくても、相場を知らない旅行者として扱われたことが警戒心を強めた。当時の私は、中国を発展途上で、日本の脅威にもなり得る国だとニュース越しに見ていた。目の前の料金交渉が、その先入観と結びついた。

日本で事前に印刷した地図を頼りに移動した。スマートフォンがない時代、現在なら画面ですぐ確認できる場所や相場も、自分で人へ聞き、間違えながら進むしかない。知らない土地で最も危険なのは、知らないことそのものより、少し見ただけで分かったつもりになることだった。

代行会社の事務所には、中国人社員が2人いた。日本人の社長が不在でも、商品を検品し、日本語で電話へ対応していた。日本人が中国へ来て会社をつくり、現地の社員へ仕事を任せて貿易を動かしている。怪しいかどうかを見に来た場所で、自分にもこのような会社をつくれるかもしれないという具体的な可能性を初めて見た。

翌日に会った日本人経営者は、日本での事業を畳み、知り合いの少ない義烏で貿易会社を始めた人だった。仕入れ、商品調査、発送を100元で引き受ける分かりやすい仕組みをつくり、成功だけでなく失敗も日記へ書いていた。画面で読んだ人と、目の前の人物が一致していた。会社を訪ね、社員の働き方を見て、本人と話すことで、初めて取引を考えられる状態になった。

巨大市場で、価格の理由と生活の違いを見た

義烏の国際商貿城には、よく似た商品を扱うブースが延々と並んでいた。ケーブル、小型家電、電子機器が何万点とあっても、初めて歩く私には違いが分からない。同じような店ばかりで商売が成り立つのかとも思った。後になって、店頭の人通りではなく、世界中のバイヤーから受ける継続注文で市場が動いていると知った。現場を見ても、仕組みを理解しなければ見誤る。

義烏の国際商貿城(福田市場)の通路
義烏(イーウー)の国際商貿城(通称「福田市場」)

市場のトイレは汚れ、たばこの煙と臭いが残り、ドアが壊れた個室もあった。日本とは衛生感覚が大きく違うと感じた一方、その環境のすぐ隣で世界へ商品を送る商売が動いていた。きれいで整っていることと、商流が強いことは同じではない。自分にとって不快な違いだけを見て、その土地の力まで低く評価してはいけないと気づいた。

最初に仕入れたAVケーブルは1本約5元(当時約80円)で、日本では680円で販売した。ファミコン互換機は30元(当時約480円)で仕入れ、約2,000円で売った。日本の問屋へ流れている商品を現地から直接仕入れれば、中間流通の分だけ価格を下げられる。中国から安く仕入れられるという話は本当だった。ラインストーンも試しに仕入れると、商品によっては粗利益率が約90%になった。

ただし、安い価格がそのまま利益になるわけではない。言葉、品質、最低発注数、納期、送金、検品、国際配送までを越える必要がある。日本から注文する場合には商品価格で判断するしかないが、現場には確認すべき工程がいくつもあった。初めての渡航で得た最も大きな収穫は、安い商品そのものより、価格差の裏側にある仕事の全体像だった。

通訳を信じ切り、1,000万円を超える損失を出した

市場を案内してくれた通訳から、次回からは代行会社を通さず、自分へ直接依頼してほしいと言われた。会社を通すと手数料が引かれるが、直接なら私の支払額を変えずに自分の収入が増えるという説明だった。田舎から出てきた20歳そこそこの若い女性で、一生懸命働く姿を見て努力を応援したいと思った。恋愛感情が湧いたことも事実である。紹介会社の役割を軽く考え、直接依頼することを承諾した。

やがて月額報酬で専属として働きたいという提案を受け、義烏で事務所兼住居となる部屋まで借りた。日本にいながら商品を探し、工場と連絡し、発送を進めてくれる中国連絡事務所ができるように思えた。仕事上の信頼と、個人的な好意が混ざっていたことも否定できない。確認を求めれば相手を疑うことになると考え、両替レートや仕入れ価格の根拠を十分に求めなかった。

2万元の送金を求められた時に書き残した手帳のメモ
今日中に支払わないと商品が没収されると言われて2万元(当時約32万円)を送金した

取引を続けるうちに、商品の価格へ知らない上乗せがあることが分かった。通訳料と月額報酬のほかにも差額が取られ、示された両替レートとの違いを含めると、損失は総額1,000万円を超えた。荷物が税関で止まったとして2万元を求められ、商品を失う怖さから支払ったこともある。相手を社員のように見ていた自分と、取引先として見ていた相手で、関係の前提が違っていた。

私は最初の代行会社へ謝りに行った。紹介された通訳と直接契約し、会社を外したうえで問題を起こしたのだから、再利用を断られても仕方がない立場だった。それでも経緯を説明すると、経営者はもう1度受け入れてくれた。仲介手数料は、人を紹介しただけの代金ではない。監督、取引管理、問題が起きた時の責任、信用の維持まで含む。手数料を省けば、その役割とリスクを自分が引き受けることになる。

人を疑うのではなく、取引を確かめる仕組みをつくった

同じ失敗を防ぐため、領収書を求め、価格を複数の人へ確認し、送金と発注を1人へ集中させないようにした。信頼は、確認をやめる理由ではない。相手を99%信じても、残りの1%を仕組みで確かめる。確認することは相手を不誠実だと決めつける行為ではなく、双方の認識を合わせ、誤解が起きても追える状態をつくることだと考えるようになった。

サイボウズで中国の商品・取引情報を共有したデータベース画面
サイボウズで取引情報の共有を徹底した

在日中国人の先生から、中国語を週3回、朝8時から10時まで個人レッスンを受けるようになった。発音や単語を学んでも、すぐ自由に話せたわけではない。むしろ、中国人から見た仕事の進め方や、自分の行動がどう受け取られるかを先生へ相談する時間になった。実際に会話が身についたのは、現地で暮らし、食堂で注文し、市場で交渉し、社員と毎日話すようになってからだった。

大きな損失を出した時、1人との失敗を中国全体の話にして取引をやめることもできた。しかし、現地で会った人は1人ずつ違った。誠実な人も、不誠実な人もいる。親切な人も、自分の利益を優先する人もいる。それは日本人も同じだった。国籍で人を判断するのではなく、目の前の約束、書類、行動を見る。歴史や文化の違いを消さずに、1件ずつ関係をつくる方を選んだ。

その後の中国事業では、自分がつまずいた場所を確認工程へ変えた。注文、価格、検品、送金、発送を分け、問題が起きた時に誰が何を確かめるかを残す。失敗を成功談で覆わず、同じ失敗を繰り返さない仕組みにする。知らない国へ進む時に必要なのは、怖がらないことではない。怖さの正体を現場で見て、管理できる工程へ変えることである。

Chapter 05

自分の基準を上げる場所へ行く。

2009年 債務超過 自己流を疑い、学びを理念と数字へ落とすことで会社は変わる

月商4,300万円でも、会社にはなっていなかった

中国からの仕入れを始めると、商品は仕入れた端からどんどん売れていき、社員を次々に採用した。2007年の暮れには、社員は10人を超えた。オフィスがあり、役割を分け、朝礼をする。都市銀行の担当者が融資を勧めに来て、運転資金として1,000万円を借りた。会社らしい形がそろったことで、1人の商売が組織になったと思った。楽天市場では最高月商4,300万円を記録し、売上が増えれば、さらに人を増やして事業を大きくできると考えた。

中国から届いた段ボール箱が積まれたトラックの荷台
義烏で目利きした商品がコンテナで次々と届き、またたく間に売れていった。

しかし、実際には、中国から仕入れた商品を扱うのに、それほど多くの人手は必要なかった。当時は、仕入れも商品ページの作成も販促も私が担い、社員へ任せられるとは考えていなかった。ただ、検品と出荷は忙しく、私が頼んだ仕事へすぐ応じてくれる部下がいること自体を楽しいと感じていた。その仕事が新たな利益を生んでいなくても、人を動かしていることに満足していた。売上を生んだ事業の利益を、会社らしい外形を保つ固定費へ流す状態だった。

ヒット商品が売れなくなっても、人を減らす決断ができなかった。会社を大きくすると言った後に人員整理をすれば、自分の失敗を認めることになる。そう考えて見栄を守る間にも、給与と家賃は出ていった。会社は1,000万円を超える債務超過になり、預金残高が尽きた時期もあった。

ある給料日には、クレジットカードで新幹線回数券を買い、金券ショップへ持ち込んで50万円をつくった。それで目の前の給与は払えても、翌月には約60万円を返さなければならない。支払いを先へ送っただけで、経営は何も改善していなかった。売上があるのに現金がないという現実が、人員整理を先延ばしにした結果を突きつけた。

最終的に、自分と社員1人、パート約3人の体制まで縮小した。月商は約500万円、粗利益は約200万円、固定費は約150万円で、ほとんど利益が残らない。それでも私は、以前の社員が自分から仕事をつくらなかったことへ不満を向けていた。会社の目的も、任せる範囲も、判断の基準も示していないのに、自分と同じように動くことを求めていた。人が集まり、売上が大きければ会社になるのではない。会社の形をつくりながら、中身は私1人の商売のままだった。

成功体験を疑い、自分の基準の外へ出た

29歳の春、自分の会社は行き詰まっているのに、成長している会社はある。その違いを現場で確かめたくなり、東京、名古屋、大阪の5社を2泊3日で訪ねる視察へ申し込んだ。参加費は25万円。当時の会社に余剰資金はなく、金利18%のカードローンで借りた。

借金をして学ぶこと自体を勧めたいわけではない。返済の見通しも、参加すれば会社が立ち直る保証もなかった。ただ、同じ場所で同じ考えを繰り返した結果が、目の前の会社だった。今の自分には理解できない経営を、実際に動いている現場で見なければならない。苦しい時ほど、自分の基準の外へ出る必要があると判断した。

平成19年分の所得税確定申告書を開き、給与と所得の欄が見える写真
起業当初、すぐに年収2040万円になったことで、その後の判断を鈍くした

それまでの私は、一度は年商4億円までいったし、年収も2040万円になったことで、経営のことはすべて知っていると思い込んでいた。自分より先を行く人の場所へ入ることには、分からない自分を認める怖さがある。参加直前には胃腸が痛くなり、行かない理由を探した。それでも、今の自分に安心できる場所だけにいては、同じ判断を繰り返す。25万円で買おうとしたのは答えではなく、自分の基準を疑う機会だった。

理念が、会議と判断を動かす現場を見た

視察先の1社では、会社の理念を定めてから、採用する人と日々の判断が変わり、人が集まるようになった経緯を聞いた。理念は壁へ掲げる言葉ではなかった。何を目指し、顧客へどんな価値を返し、仕事で迷った時に何を優先するかを、社員が同じ方向で考えるための土台になっていた。

特に印象に残ったのは、顧客の声を改善へ変える会議だった。寄せられた声を日付、内容、担当ごとに整理し、毎週の会議で解決策を決める。その場で終わらないものは翌週の課題とし、決めた後の進み方まで確認していた。社長が全件へ答えを出すのではなく、問題を共有し、判断し、振り返る流れそのものが会社に組み込まれていた。

経営視察で会社の目的と組織の仕組みを書き留めた手帳
経営が行き詰まった時期、視察先で書き残した組織づくりのメモ

そこで見えたのは、社員へ自主性を求めるだけでは組織は動かないということだった。会社の目的を理解し、自分の役割と決められる範囲を知り、結果を振り返る場所があって初めて、判断は現場へ移る。自社には、その前提がほとんどなかった。私が答えを抱えたまま、社員へは答えを持つよう求めていた。

働く人を入れ替えれば会社も変わるのではない。経営者が目的を定め、役割と判断の場を設計しなければならない。視察で得た最大の発見は、優れた経営者の話を聞いたことではなく、理念が日々の仕組みとして使われている現場を見たことだった。学びは、自分の問題を他人へ向けていた視線を、経営者である自分へ戻した。

学びを、数字と「やらないこと」へ変えた

段ボール箱に収められた自社OEMのゲーム互換機と商品パッケージ
OEMに主軸を移し、業績が向上した

視察から戻っただけで、会社が別物になったわけではない。しかし、私の中では何かが変わっていた。その年の後半から、米国家電や中国でつくったゲーム周辺機器の売上が伸び、月次では経常黒字が出るようになった。採用を再開する時には、仕事内容だけでなく、会社のビジョンとミッションを説明し、それに合う人を採用した。以前のように人を先に集め、後から仕事を割り振る方法を変えた。

机の上に置かれた部門別PL資料を表したイメージ
部門別PL=利益の真実を元に徹底して業績改善を議論するようになった。

各事業には社員の責任者を置き、事業別の損益をつくった。売上、仕入れ、広告、人件費を同じ数字で見ながら、改善の道がない赤字事業はやめ、黒字化の可能性が見える仕事には広告と人を加えた。社員へ結果だけを求めるのではなく、数字を一緒に見て、何を変えるかを話し合う。任せるとは、作業を渡すことではなく、目的と判断材料を共有することだと考えるようになった。

自己流を過信せず、真摯に素直に学ぶようになった。マーケティングや経営などのセミナーを受講し、複数のコンサルタント契約もした。仕事の合間には書店に行き、ビジネス書を漁るように読んだ。A5の手帳を常に持ち歩き、本の内容や気づきを自分の現場に落とし込んだ。他社の事例やコンサルタントのアドバイスがそのまま使えるわけではないが、迷いは圧倒的に減った。

別のIT企業を見学した時には、仕事を増やす前に、やらない仕事を明文化する経営を知った。紙や電話へ依存せず、離れた拠点を画面でつなぎ、連絡を記録する考え方も学んだ。すべてをそのまままねるのではなく、中国法人を立ち上げる段階で、自社の使命、残す事業、やめる仕事へ置き換えた。

営業開始前の手帳には、日本と中国の未来を共につくること、両国の経済的な結び付きを深めることを書いた。中国の商品を日本へ、日本の商品を中国へ届ける。その使命から外れる仕事はやめるか、別会社へ分ける。祖業であるゲーム事業をやめる決意も、この時にした。理念を考えることは、良い言葉を選ぶことではなく、何を続けないかまで決めることだった。

中国法人の営業開始前に使命と事業を整理した手書きメモ
中国法人の営業開始前に書いた、使命と事業の整理

日本と中国の社員へ判断を渡すには、使命を日々の行動へ落とす必要があった。時間、品質、顧客の利益、全体最適などの基準を言葉にし、朝礼や会議で、結果だけでなく、なぜそう判断したかを話した。外で見た完成形をそのまま持ち込むのではなく、自社の顧客、社員、資金、文化に合わせて仕組みへ変える。学びは、実際の会社へ入れて初めて自分のものになった。

背伸びとは、持っていない力を持っているように見せることではない。今の基準では選ばない場所へ行き、足りないものを認め、持ち帰ったものを行動へ変えることだった。成長したければ、背伸びしろ。それが、この時に得た基準になった。

Chapter 06

未来をつかむには、成功さえ手放す。

2011年 事業転換 すべてを抱えず、選んだ未来へ人と時間を集中する

自分の仕入れが、次の事業の入口になった

2010年末、会社は債務超過を脱した。資金繰りをつなぐことだけに追われた時期を抜け、私は再び海外へ目を向けた。香港やドイツの展示会へ足を運び、日本ではまだ見かけない商品を探し、メーカーと商談した。ただ、展示会を見て回ったこと自体が転機だったわけではない。持ち帰った情報を、日本で売れる商品へ変えるところまでが仕事だった。

展示棚に置かれ、蒸気を出しているピンクと水色のアロマ加湿器
中国でOEMしたアロマ加湿器。Francfrancをはじめ全国で流通した

最終的に大きな売上につながったのは、中国の工場でOEMした加湿器とモバイルバッテリー、そして扇風機だった。扇風機は楽天市場のデイリーランキングで1位になった。加湿器は1シーズンで4,000台を卸し、モバイルバッテリーは5,000個売れ、自社ブランドの商品がFrancfrancやロフトの売り場へ並んだ。自分で仕入れてネットで1個ずつ販売するだけでなく、商品をつくり、まとまった数量を小売店へ届ける仕事へ広がった。

ロフトへ出荷する自社ブランドの加湿器と指定された価格ラベル
ロフトへ出荷する自社ブランドの加湿器に、指定された価格ラベルを貼った。

同じ頃、経営を学ぶためにセミナーや勉強会へ参加するようになった。そこで知り合った卸商社やネット通販会社の経営者から、中国での仕入れ方や工場の探し方を尋ねられる機会が増えた。自分のために積み重ねた仕入れと販売の経験が、ほかの経営者にも必要とされ始めていた。

かつて自分の商品を探すために訪れた義烏へも、再び通うようになった。自分の仕入れ先を探すだけだった場所が、ほかの会社の仕入れを支える事業の拠点になろうとしていた。商品を売る経験を、自分だけの売上で終わらせず、次の仕事へ変える準備が始まった。

現地社員4人全員に辞めると言われた

2011年の暮れ、中国現地法人の準備を始めた時、義烏には社員が1人だけいた。翌年には仕入れ代行事業を始めようと動いていて、新たに3人を採用した。私は日本にいながらチャットで指示を出し、必要な時に出張すれば会社は動くと考えていた。現地に人を採用し、作業を渡せば、中国事業を遠隔で管理できると思っていた。

机とパソコンが置かれた中国法人最初のオフィス
中国法人最初のオフィス。お客様0人が半年続いていた。

営業開始を前に、福田市場の商品と問屋情報をカタログへまとめ、お客様へ見せられる状態にするよう指示した。しかし、どこまで調べ、どの形式で、誰が見ても何が分かるものにするのか、具体的な完成像を渡していなかった。当然、出来上がったものは私が思い描いたカタログとは違った。

そこで私は、夜中まで残業してでも終わらせ、失敗した時間を取り戻すのが日本企業では当たり前だという趣旨の言葉を、チャットで送った。叱咤激励のつもりだった。しかし、細かい指示をしなかった自分の責任を棚へ上げ、日本で働いてきた自分の基準を、そのまま中国の社員へ押しつけていた。文字だけでは焦りも期待も伝わらず、強い命令だけが残った。

社員の側には、まだ売上がない会社にいて、本当に給与を受け取れるのか、この先に仕事があるのかという不安もあったのだと思う。私の一言だけが原因ではなかったとしても、その不安へ向き合わないまま、時間で失敗を取り戻せと命じたことで反感は一気に表れた。4人全員が辞めたいと申し出て、最終的に残ったのは、最初に採用した1人だけだった。

4人から辞めたいと言われた時、このままでは中国事業は成り立たないと思った。日本から作業を送ることはできても、社員が何に困り、何を不安に感じ、どんな会社を一緒につくるのかは伝えられていなかった。中国事業を本気で続けるなら、自分が現地へ入り、同じ場所で向き合うしかないと決めた。

日本と中国を往復し、義烏へ生活の重心を移した

義烏には法人の準備を始めた段階でアパートを借りていた。しかし、部屋があることと、現地で会社を経営することは同じではない。退職騒動の後も、すぐに日本での仕事をすべて終えられたわけではなく、その後しばらくは、およそ2週間を中国、2週間を日本で過ごす生活を繰り返した。

中国現地法人の設立当初、食卓を囲む社員たち
中国現地法人を設立した当初の社員。今は幹部として会社を支えている

日本にいる時には通販事業を見て、中国へ戻れば市場、社員、顧客の問題へ向き合った。画面の向こうにいる時には見えなかった仕事の前提や、社員が迷う理由が、同じ場所で働くことで見えるようになった。遠隔で作業を管理する前に、相手が何を見て判断しているのかを理解しなければならなかった。

現地にいれば、社員の不安がすべて消えるわけではない。それでも、問題が起きた時に一緒に市場へ行き、顧客の要望を同じ場で聞き、判断の理由をその場で話せる。何をしてほしいかだけでなく、なぜ必要なのかを共有する時間が増えた。短期出張で仕事を振る人から、同じ場所で結果を引き受ける人へ、自分の立ち位置を変えた。

一方で、2つの国を往復する生活は、自分の時間に限りがあることも明らかにした。日本の通販を自分で育て続けながら、中国で新しい会社をつくることはできても、どちらにも十分な時間を渡すことはできない。何かを始める決断だけでなく、どの仕事を自分の未来として選ぶかを決める必要があった。

利益を生む3つの事業を、次の経営者へ渡した

仕入れ代行を始めたからといって、日本の通販事業が自動的に回っていたわけではない。ラインストーン、輸入家電、中古ゲームは、それぞれ十分な売上と利益を生んでいたが、任された社員が売れ筋商品の発注を忘れて在庫切れを起こしたり、モールの販促セール企画へ対応しなかったりすることが重なった。最初のうちは私が細かく指示していたが、自分が中国事業に関心を移すのと同時に、売上は横ばいとなり、成長しなくなった。特に中古ゲームは、4畳半の部屋から始め、会社の祖業になった仕事で、愛着はあった。しかし、中国事業に集中することを決めた。

譲渡の前に必要だったのは、私が指示を出さなくても仕事が回り、利益を生む状態へ仕組み化することだった。仕入れ、サイト、受注、顧客対応、在庫、取引先を整理し、別の経営者が引き継いでも続けられる形にした。自分が抜けたら止まる仕事では、事業として渡すことができない。

その翌年の夏頃、ラインストーン製造輸入販売、輸入家電、中古ゲームの3事業を、それぞれ別の事業者へ譲渡した。最後に中古ゲーム事業を渡すと、約3万点あった在庫も日本のオフィスからなくなった。

3つの通販事業を譲渡し在庫がなくなった日本のオフィス
3事業の譲渡後、約3万点の在庫がなくなった日本のオフィス。

中古ゲーム事業には、時給800円の古本店で働いていた頃からの思い出がある。それでも、振り返れば、私はネットショップそのものを経営したかったわけではなかった。商品を届けることで夢を支えることより、仕入れや販売で利益をつくり、お客様自身が望む未来へ進むのを支える仕事に、より大きな喜びを感じるようになっていた。

義烏へ生活と経営の軸を移すため、日本で成功した事業を次の人へ渡した。未来を選ぶには、失敗した仕事だけでなく、利益を生み、思い入れのある仕事まで手放さなければならない時がある。自分で商品を売る側から、ほかの人が仕入れ、つくり、売れる道をつくる側へ移る。その選択が、今のイーウーパスポートにつながった。

Chapter 07

自分が売るより、売れる道をつくる。

2013年 中国輸入代行 答えを与えるより、自ら判断し成長できる仕組みを残す

自分の商品ではなく、挑戦できる道を残した

2012年、私は中国輸入代行会社「イーウーパスポート」を立ち上げ、仕事の重心をこの事業へ移した。それまでの私は、中国で商品を見つけ、自分の店で販売し、自分の会社の売上を伸ばしてきた。しかし、その経験を自分の商売だけに使うのではなく、ほかの人が中国から仕入れ、自分の商品をつくるために使えないかと考えるようになった。

注文された商品を買い、手数料を受け取り、日本へ送るだけでも、仕入れ代行会社としては成立する。それでも、商品選びや工場との交渉をすべて代行会社へ預けたままでは、会員は次も同じ会社へ聞かなければならない。つくりたかったのは、自社へ依存する人を増やす仕組みではなく、自分で価格と品質を比べ、自分の商売を判断できる人を増やす仕組みだった。

イーウーパスポート開始時の展示ブースに立つ佐藤大介
顧客には、中国輸入で得た実体験を包み隠さずシェアした。

自分自身、義烏の市場へ行き、現物を見たことで人生が変わった。日本の問屋から買うだけでは見えなかった価格、商品の種類、工場との距離が、まとめて目の前へ現れた。その経験をほかの人にも渡すことができれば、商品を1つ代わりに買うよりも、長く使える力になる。自分の商品を売る商売を手放した先に、自分の経験を他人の商売へ渡す仕事が残った。

日本式の検品基準や物流センター、日本側の倉庫を整えたのも、設備を大きく見せるためではない。資金の少ない人でも、小さく仕入れ、品質を確かめ、売れ方を見て次を決められるようにするためだった。国内倉庫を基本利用料を負担せず使える形にしたのも、自分が在庫と固定費で苦しんだからこそ、初めて挑戦する人が最初から同じ重さを背負わずに済む道をつくりたかったからである。

「この人に聞けば分かる」を、会社の仕組みにした

仕事を効率だけで考えれば、買付、工場交渉、検品、発送を別々の人へ分けた方がよい。しかし、顧客の立場では、担当者が変わるたびに商品の目的や注意点を説明し直さなければならない。買付をした人は検品の結果を知らず、検品した人は、なぜその商品を選んだのかを知らない。その状態では、問題が起きた時に、誰へ聞けばよいのか分からなくなる。

そこで、会員ごとに1人の専任社員を置き、その社員が買付、OEM交渉、検品、発送までを担当する仕組みにした。単に連絡窓口を1つにしたのではない。1人の社員が、商品を探すところから日本へ送り出すところまで、自分の仕事として持つ形にした。

中国現地法人のオフィスで業務を行う社員たち
創業時から専任担当者制を続けている。

同じ会員を長く担当すれば、求める品質、販売先、価格の考え方、過去に起きた問題まで分かるようになる。工場が忙しくなる時期には、春節前の注文はいつまでに決めた方がよいかを先に伝えることもできる。言われた商品を買うだけではなく、その会員の次の判断を支える提案ができるようになった。

工程を細かく分けることより、「この人に聞けば、すべて分かる」という関係を優先した。仕入れの失敗で苦しんだ時、私が欲しかったのも、責任の所在が見える相手だった。自分が顧客として感じた不便と不安を、そのままにしないことが、仕事の形になった。

人生を変えた現場を、会員にも開いた

仕入れ代行会社にとって、市場や仕入先を見せず、注文だけを受け続ける方が効率はよい。それでも、義烏の仕入れツアーを毎月開催した。現在まで120回を超え、広州でも40回を超える開催になった。現地社員が同行し、会場や移動を手配するツアーには、手間も費用もかかる。それでも続けたのは、私自身が現地へ行き、自分の目で確かめたことで人生を変えたからだった。

義烏の市場で参加者へ仕入れのポイントを説明する様子
仕入れツアーでは、仕入れのポイントをレクチャー。

市場では、同じように見える商品でも、価格、素材、縫製、最低発注数が違う。写真と見積書だけでは分からない差を、自分の手で触れ、問屋へ質問し、隣の商品と比べる。私や社員が答えを決めるのではなく、参加者自身が、これは売れる、この品質では難しいと考える。その判断を持ち帰ることが、ツアーの目的だった。

参加者が自分で市場を歩けるようになれば、代行会社へ頼む仕事が減ることもある。しかし、会員を不自由なまま囲い込んで得る売上より、自分で判断できる人が増える方がよい。自社を必要とし続ける人を増やすのではなく、自社がなくても商品を選べる人を増やす。その考えが、単体の採算だけでは説明しにくいツアーを続ける理由になった。

答えを教えず、学び合う仲間を増やした

良い商品を仕入れても、それだけで売れるわけではない。商品名、写真、説明、価格、広告、在庫の持ち方まで考えなければ、仕入れた商品は倉庫へ残る。そこで、自分が中国から仕入れ、ECで販売してきた経験をセミナーや会員向けの勉強会で共有した。売れた話だけでなく、在庫を抱えたこと、品質で失敗したこと、広告費を使っても結果が出なかったことも伝えた。

会員勉強会で中国仕入れと販売の経験を伝える佐藤大介
仕入れや販売の成功だけでなく、失敗と修正も会員と共有した。

学んだ人が市場へ行き、商品を選び、工場と交渉し、改良を重ねてOEM商品をつくる。分からないことがあれば、担当社員やほかの会員へ相談する。懇親会では、セラー同士が商品の話をし、失敗や次の計画を語った。競う相手であっても、同じ課題に向き合う仲間になれば、1人では気づけない答えが見つかる。

海外に拠点があった時期には、タイ、ベトナム、台湾、香港でも、会員の現地仕入れアテンドは原則無料で行った。代わりに商品を選ぶのではなく、現地を一緒に歩き、自分で確かめる機会をつくる。仕入れ代行、ツアー、セミナー、勉強会、交流は、別々のサービスを増やしたものではなく、会員が自分の商売を回せるようになるまでの道をつないだ結果だった。

競争相手まで、仲間として送り出した

会員の中には、中国仕入れで商品を売るだけでなく、自分でも貿易会社をつくりたいと考える人が現れた。将来は自社の競合になり得る。それでも、オフィス会員として場所や実務を提供し、採用、労務、会計、輸出まで、事業の立ち上げを支援した。

自社の利益だけを考えれば、その独立まで手伝う必要はない。だが、貿易会社をつくるほど意欲のある人は、私が手を貸さなくても、自分で方法を探して始める。それなら、引き止めて関係を失うより、応援して同業の仲間として送り出す方がよい。何より、挑戦する人との縁が続き、ときどき酒を飲みながら仕事を語れることが楽しかった。そうした関係には、損得だけでは測れない価値がある。

国内展示会では会員と共同出展し、後には香港でも会員がつくったOEM商品を並べた。展示会へ行った実績をつくることが目的ではない。自分でつくった商品をバイヤーへ説明し、反応を受け取り、次の改良と販路へ戻すところまで経験してもらうためだった。

OEM商品が並ぶ共同出展ブースの前に立つ参加者たち
会員がつくったOEM商品を、次の売り場へつなぐ共同出展。

自分だけが商品を見つけ、自分だけが売上を伸ばしていた頃、成功の基準は自社の数字だった。イーウーパスポートを始めてからは、会員が自分で商品を選び、自分の会社をつくり、やがて同じ業界で仕事をする姿も成果だと考えるようになった。

自分が売り続ければ、自分の力が届く範囲で商売は終わる。仕入れ方、判断の基準、学ぶ場、仲間と出会う機会、売り場へ出る道を残せば、そこで育った人が、その先に新しい商売をつくっていく。自分の商品を売ることより、誰かが自分の商売をつくれる道を整えることへ、経営者としての役割が変わった。

Chapter 08

商売で、国と国の間に橋をかける。

2020年 コロナ禍 日々の取引で育てた信頼が、危機の中で人と組織を動かす

日本の顧客が、中国へ手を差し出した

中国法人では2012年の立ち上げ当初から「中日共創未来(日本と中国は、共に未来を創っていく)」を社是に掲げた。折しも尖閣諸島を巡る対立が表面化し、日中双方で世論が過熱していた時期でもあった。私は、日本と中国のどちらかだけが得をするのではなく、直接貿易を増やし、双方に利益が残る仕事をつくろうと考えた。商品と金が行き来し、現場で働く人が互いを具体的に知れば、政治や報道だけでは見えない関係が生まれる。商売を相互理解へつなげることを、会社の目的に置いた。

中国法人のオフィスに掲示した「中日共創未来」と行動指針
中国法人のオフィスに掲げた「中日共創未来」と行動指針。会社の目的を、目に見える形で共有した。

2020年の年明け、中国・武漢で原因不明の肺炎が広がっていると報じられた。やがて新型コロナウイルスによるものと分かり、感染は中国各地へ急速に広がった。消毒液やマスクの不足が伝えられた時、複数の日本人会員から、中国人社員と家族へ送りたいという申し出があった。費用はいくらかかっても構わない。日頃、自分たちの商品を探し、検品し、発送している社員と家族の力になりたいという話だった。

私はN95マスクを1万枚用意し、社員だけでなく、家族や取引先へも渡した。売上を守るためではなく、同じ会社と取引を支えてきた人の安全を守るための仕事だった。中国で暮らす社員は、発注書の向こうにいる知らない人ではない。日本の顧客が、そう考えてくれていることがうれしかった。

長年の取引では、品質や納期の問題も起きる。それでも、問題が起きれば一緒に直し、約束を積み重ねてきた。危機の時に差し出された支援は、その関係が価格と手数料だけでつながっていなかったことを示した。理念を説明したから生まれたのではなく、日々の取引の中でつくられた関係だった。

今度は、中国人社員が日本へ届ける道をつくった

やがて日本でもマスクが不足すると、中国人社員から、日本へ送るべきだという提案が出た。工場と仕入れルートを持つ会社だからできることがある。自分たちは利益を取らず、原価で届けたいという意見だった。私が命じたのではない。社員が日本の状況を見て、自分たちにできることを考えた。

義烏の臨時マスク生産ラインで機械を操作する作業員たち
義烏で、急遽立ち上げたマスク生産ライン。社員は原料の入手に奔走した

提案を受け、日本へ100万枚を供給する計画を決めた。社員は工場を探し、品質と数量を確かめ、最初の提案から3日で調達の道をつくった。会社は利益を取らず、会員へ原価で卸した。会員は各自が持つルートで販売した。

中国では輸出規制が発布されたり、その後に撤回されたり、一方で税関の処理は滞り、航空便も減便となり、未曾有のパンデミックを前に国際物流は混乱していた。その中でも駐在する日本人社員と現場の中国人社員は力を合わせ、指示を待つこと無くそれぞれの現場で問題を分け、調達、品質、輸送、顧客対応をつないだ。

日本向けの不織布マスクを梱包した段ボール箱
最終的に、5月末までに200万枚を供給した。(うち10万枚は社会福祉協議会に寄贈)

その後も複数の工場を開拓し、月1,350万枚を供給できる体制まで広げた。数を増やすことだけが目的ではない。品質を落とさず、必要な時期へ間に合わせ、会員の事業も続けられる価格にする。会社が共有してきた判断基準を、危機の中で自分たちの仕事へ置き換えた。

会社ごっこの頃は、人を集めても判断は私へ集中していた。この時は私が現地へ入り、1件ずつ指示したわけではない。速さ、品質、顧客の利益、全体最適という基準を共有した社員が、目的から優先順位を決めていた。社員へ任せることは、自分の仕事を減らすためではなく、社長1人ではできない判断と行動を組織から生み出すことだった。

マスクの上に置かれた中国人社員から日本の顧客へのメッセージカード
中国人社員が日本の顧客に送ったマスクとメッセージカード。

中国で不足した時には日本側が動き、日本で不足した時には中国側が返した。同じ枚数を返す取引ではない。相手が困った時、自分の持つ力を使う。その往復を見て、長年掲げてきた「中日共創未来」は、会社の壁にある言葉ではなく、人と人の間に生まれた関係なのだと実感した。

取引先を価格や納期だけで選ぶ関係なら、危機の時には自社を守ることで終わる。互いの顔を知り、普段から問題を一緒に解いてきたからこそ、採算より先に相手を助けたいという判断が生まれた。商売を続けることが、国境の向こうにいる人を思える関係を育てる。その橋は、社員と顧客が自分たちの意思で架けてくれた。

「もう、任せられる」と確信した

中国人社員が日本を想い、日本人顧客が中国を想う。顧客と社員という関係を超えてお互いのことを考え、助け合ったこの一件を通じて、こうした会社なら、どんな時でも乗り越えられると思った。社員へ任せることを、期待や理想として語る段階ではなく、実際に任せられると確信した出来事だった。

それでも、会社が私なしで完成したわけではない。現場へ行けば細かなことへ口を出し、自分の答えの方が速いと思う癖も残っている。だから今は、社員がそれぞれの持ち場で力を発揮し、誰か1人に頼らなくても仕事が続く会社のあり方を考えている。任せる範囲を広げながら、私は細部よりも、会社全体の方向と結果に責任を持つ側へ移ろうとしている。

イーウーパスポート13周年の会場でマイクを持って話す女性マネージャー
新卒で入社した社員が、今ではマネージャーとしてチームを率いている。

目指すのは、私の都合や体調に左右されず、会社が止まらず、働く人と顧客を守り続ける状態である。全社員が定年まで安心して働ける会社は、顧客が長く安心して依頼できる会社でもある。「もう、任せられる」と思えたからこそ、その安心を一時の成功で終わらせず、会社の土台へ変える必要があると考えた。

会社を私1人の時間に依存させないことは、社員や顧客の安心だけでなく、仕事以外の大切な時間を守ることにもつながる。仕事の成果では取り戻せない時間があると知ったからこそ、私がその場にいなくても続く会社をつくりたいと考えている。

もう、任せられる。そう思えたことで、社長の仕事がなくなったのではない。現場の外から会社全体を見て、どの事業へ人、金、時間を置くかを決める仕事が残った。ここから、私にとっての「任せる」は、次の段階へ進んだ。

終章

原点へ戻り、経験を次の人へ渡す。

現在〜これから 任せることで次へ進み、経験を次の人へ渡す

社員が社長の指示を待たず、目的から考えて動く姿を見て、私は「もう、任せられる」と思えた。私が答えを出し続けなくても、現場で考え、顧客へ価値を返せる人が育っている。任せることは、社長の仕事をなくすことではない。会社を次の段階へ進めるために、自分の役割を変えることである。

社長の仕事は、事業を立ち上げ、会社全体を見渡し、人、金、時間という経営資源をどこへ配分するかを決めることだ。進む方向と判断の基準を示したら、現場を責任者へ託す。細部へ口を出し続けるのではなく、任せた人が力を発揮できる土台を整え、最後は自分が結果を引き受ける。その責任まで手放すことはない。

机とパソコンが並び、多くの社員が働くオフィス
従業員は300人を超えたが、全員を定年まで雇用したい。

従業員は300人を超えた。私は、全員を定年まで雇用したいと思っている。そのために守るべきものは、今ある事業の形ではなく、働く場所と顧客への約束である。環境が変われば、会社も変わらなければならない。景気のよい時だけでなく、難しい時にも雇用を守り、顧客が安心して取引を続けられる会社であるために、必要な決断から逃げず、継続する企業をつくっていく。

同時に、仕事でどれほど成果を上げても、失った時間は取り戻せないことも知った。大切な人と過ごす時間、心身を整える時間、知らない土地や考えに触れる時間も、人生の一部である。会社を私1人の長時間労働に依存させず、誰かが不在でも仕事が続く状態をつくる。それは社員の人生を守り、顧客との約束を守ることにもつながる。

これまで私は、売れない在庫を抱え、人との関係を損ない、資金を失い、続ける仕事と終える仕事の間で何度も迷ってきた。成功した結果だけを話しても、後に続く人の役には立たない。何を見落とし、どの事実を受けて、なぜ判断を変えたのか。失敗を含む過程まで言葉にして渡すことで、同じ遠回りを減らし、私とは違う答えで、私より先へ進んでほしい。

夜の高層ビル群を前に、ノートパソコンを開いて仕事をする様子

私は今日も、どこかの国で挑戦を続けていく。新しい技術も、知らない国も、これから変わる商売も、自分の目で確かめ、小さく試し、修正しながら、挑戦し続ける。

その経験を、またあなたにシェアできる日を楽しみにしたい。では、どこかの国で、乾杯!